NBAで活躍する八村塁選手。
どんな幼少時代を過ごしてきたのか気になる人もいるのではないでしょうか。
バスケを始めるようになったきっかけから、学生時代の成績など具体的に見ていきましょう!そこには彼の偉業が散りばめられています。
まずは生い立ちを紹介する前に軽くプロフィールから確認しましょう。
八村塁プロフィール
※一部、NBAオフィシャルサイトより参照
名前 | 八村塁(はちむらるい) |
---|---|
愛称 | るい / はっち |
生年月日 | 1998年2月8日 |
年齢 | 26歳 |
血液型 | A型 |
出身地 | 富山県 |
身長 | 203cm |
体重 | 104.3kg |
足のサイズ | 34cm |
経歴 | 富岡市立奥田中学校 明成高等学校 ゴンザカ大学 |
SNS(Twitter)
八村塁選手はSNSもしっかりやっています。気になる人はフォローしてチェックしてみくてださい。
彼のつぶやきも要チェック!こんな映像も見れますから。
👋 @rui_8mura pic.twitter.com/IhkMyHcSux
— Washington Wizards (@WashWizards) January 4, 2020
まだまだ少ないですがかっこいい写真がたくさんあります。ここで注目すべくはファッションセンス!かっこいいんですよね。スタイリストが付いているかのよう!
八村塁の生い立ちはここから
では早速、八村塁選手の生い立ちをご紹介していきます。少し長いかもしれませんが、ゆっくり御覧ください。
富山県富山市、1998年2月に日本人の母とベナン人の父から誕生した八村塁選手。
幼少期はやんちゃで活発、小学校は地元・富山県の奥田小学校の小学生時代に遡ります。
八村塁がバスケより野球好きだった過去
小学生の頃に既に170cmの長身で、この頃はご覧の通り野球少年でした。
所属していたチームというのが「奥田少年野球クラブ」。この時の憧れは「イチロー」だったようです。
そして、気になるポジションは、有名な野球選手だと阿部慎之助選手と同じ4番でキャチャーという活躍。
実は小学生時代からバスケットボールも勧誘があったのですが、野球が好きだからと言う理由で野球部へ入ったそうです。
もし、このまま野球を続けていたらもしかしたら日本野球でも有名になっていたかもしれませんよね。
余談ですが、スライディングは当時下手だったそうです。これは幼馴染の木本紗英(きもと・さえ)さんが語っていました。
八村塁の小学生時代の偉業
小学5年生のときに小学校代表として陸上大会に出場し、100m走の競技に登場した彼は大会新記録で優勝!!
ちなみに陸上部ではありません(笑)
当時の「奥田少年野球クラブ」の高嶋元監督は当時の八村塁をこう語っています。
「球速があって球質も重かったので、キャッチボールでさえ、子供が手を傷めてしまう。ほとんど僕が相手をしていました。投手をやらせたけど捕手がとれない(笑)。小学生で、あの子の球を打てる子はいませんでした。
それで捕手や一塁をやらせた。芯に当たればまずホームラン。ゴロでも打球が速く、内野手が一歩も動けない。しかも足が速すぎて、盗塁はフリーパスでした」
引用:週刊FLASH
この時から小学生にアスリートとして開花し始めていたことがわかります。
八村塁の生い立ちに欠かせない存在
小学校を卒業し、富山市立奥田中学校へ進学した八村塁選手。
野球に打ち込んでいたのでそのまま中学校でも野球をするのかと思いきや。ここで転機が訪れます。
なんと、同級生に高身長と体格を理由にしつこくバスケ部に勧誘!
しかも、頼まれると断れない性格なのかそのままバスケ部に入部することになります。
八村塁の中学生での出会い
これはドラフト時のインタビューでも話していますが、中学校時代の恩師である坂本穣治コーチに「お前はNBAに行くんだ」と言われ、それを信じてやってきたと言っています。
坂本コーチは、小学生の頃から八村塁選手を知っていたため、実は先程の同級生のしつこい勧誘も、裏では坂本コーチが同級生たちにお願いしていたようです。
坂本コーチ自身こう話しています。
「塁が中学に入ってきて、野球は続けないという情報を耳にして。4月、新入生が行う部活見学で塁はバスケ部に来なかったのですが、5月の連休が終わっても部活動が決まっていないみたいだということで、同じ小学校から来た子たちに『とにかく連れて来て』と言ったのがきっかけです。
引用:バスケットボールキング
また、富山市立奥田中学校には、八村塁選手が1年生の時、3年生の先輩が現在NBAで活躍する馬場雄大選手がいました。
ですが、当時全くの素人だった八村塁だったので2人が同じ試合に出ることはなかったようです。しかし、全国でも数名の世界に羽ばたくバスケットプレイヤーの2人がこの市立の中学校で出会っていたというのは奇跡!
開花したバスケットボールプレイヤー八村塁
2012年八村塁選手が3年生の時、富山市立奥田中学校は初めて全国大会に出場。
そして、ここで中学3年生の全国大会で準優勝!
もちろん、チームプレーなので彼だけの成果ではありませんが、少なからず結果を残すのに貢献した主力メンバーであることは間違いありません。
この時の大会でベスト5に選出されるほどの実力。その当時の試合の模様が見られます。
八村塁の高校時代
高校の進学の際は、複数の強豪校から勧誘が来たが、複数のお誘いを断って宮城県にある私立明成高等学校へ進学。
もちろんバスケットボール強豪校ではあるのですが、もう1点理由がありました。それは、
「卒業後にアメリカの4年制大学にいけること」
つまり、既に将来のNBAに行くことを視野に進路を決定していたのです。そして、3年間みっちりと心技体を磨くことになりました。
八村塁の高校時代の成績
徐々に風格を表す八村塁。1年生からスタメン出場以下の成績を収めます。
国内2冠大会というのをご存知でしょうか?一応知らない方向けに簡単に説明すると
- インターハイ:毎年8月に開催
- ウインターカップ:毎年12月に開催
学年 | インターハイ | ウインターカープ |
---|---|---|
1年生 | ベスト4 | 優勝 |
2年生 | 準優勝 | 優勝 |
3年生 | 優勝 | 優勝 |
ウインターカップは3連覇、3年生のときには明成高校初となる念願のインターハイ初優勝し、2冠達成してしまいます。
本当に凄いのはチームだけではありません。やはり個人の貢献度です。
ウインターカップでは第44回~第46回まで毎年大会ベスト5に選出され、その個人力も全国で証明されました。
八村塁の高校卒業後から現在
高校卒業後、再び多くのスカウトの中から、アメリカの私立大学「ゴンザガ大学」へ進学します。
ここは、多くのバスケットボール選手を排出した名門学校で、先生たちのきめ細やかな教育方針が特徴のようです。マンモス校ではなく生徒約7500人程度(※アメリカでは小規模)のため、
バスケに関しては、海外も視野にいろんな場所から学生が集まることでも知られています。
そんな学校の決めてについて八村塁選手も大学についてこう話しています。
コーチがつきっきりでシュート練習を毎日見てくれるんです。去年はダンクの練習もたくさんしました。ゴンザガは本当に選手一人ひとりのことを考えてコーチしてくれるんですよ。ここの雰囲気が本当に好きです。ここでもっと練習がしたいと思っています。
引用:BASKET COUNT
八村塁のゴンザガ大学時代
ゴンザガ大学でまず大変だったのは”英語”だったそうです。
今でこそ流暢にインタビューなどで英語で会話していますが、昔はしゃべることができませんでした。
もちろん、高校3年生の時から英語漬けで勉強していたのですが、大学では、きめ細かに英語の指導を受けます。
例えば、家庭教師はもちろん、練習後や移動中、ほとんど英語の勉強だったようです。
八村塁の世界へ向け第1歩
1年目は控えで試合に出場するのは、勝敗が決定した残りの時間でのみ。1年目の出場時間もわずか数分程度。
その後、2年目はスタメン出場は2回、途中出場する場面も多くなりが多くなり、活躍の場面を多く見せることになります。
そして大ブレイクしたのは記憶にあるかもしれません。こちらです。
大会MVPを手にする八村塁
2018年に行われた名門デューク大とゴンザガ大学との決勝戦です。
ここで、ゴンザガ大学は89-87で勝利、しかもゴンザガ大学エースの八村塁選手は、20得点7リバウンド5アシスト3ブロックを収め、大会MVPを獲得!
1年目から圧倒的なプレイではなく、1年、2年、3年と着実にステップアップして成長するのは彼らしさなのかもしれません。
獲得した賞の数々
こちらが受賞歴になります。
- ジュリアス・アービング賞
- WCC最優秀選手賞
- オールアメリカ(全米カレッジバスケットボールのトップ5)
- 招待トーナメント「マウイ・インビテーショナル」MVP
ジュリアス・アービング賞とは、NCAA年間最優秀スモールフォワード賞です。つまりポジション別No1です。
過去には、ミカル・ブリッジスやジョッシュ・ハート、デンゼル・バレンタインなどがいます。
八村塁の生い立ちのまとめ
ちょっと長くなってしまいましたが、八村塁選手の生い立ちいかがでしたか?
生まれ持った才能はもちろん、努力が垣間見れました。また、坂本コーチをはじめ彼の周囲を取り巻く環境が素晴らしいアスリートだったのではないでしょうか。
NBA選手としての今後も日本を沸かせてくれる素晴らしい活躍を期待しています。
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