日本の卓球界のエースとして活躍を期待される張本智和選手。
これまでも大会最年少優勝記録を更新したり、快進撃は止まりません。
そんな若手エースを支えてきたのは言うまでもなくご両親ではないでしょうか。
今回は、日本一にまで育てた気になる張本智和選手の両親にフォーカスしてご紹介したいと思います。
中国人の日本人?とはいったいどういう事なのか、早速、張本智和選手のご両親がどんな人なのか見ていましょう。
張本智和の両親
張本智和選手は、宮城県仙台市で育った日本人です。
生まれも育ちも日本ですし、国籍も日本なのですが、彼にはもう一つの名前がありました。
それが「張智和(ざん ともかず)」という中国名です。
そのルーツである両親がこちらです。
母・張凌
張本智和選手の母である張凌(ざん・りん)さん。
母親は、なんと1995年に中国代表として活躍した世界卓球選手権の元代表。
オリンピックで4つの金メダルを獲得した中国の名選手である鄧 亜萍(とうあひょう)とチームメートでもあります。
強豪中国代表というのは相当な実力の持ち主、張本智和選手の強さの理由がわかります。
父・張本宇
こちらが張本智和選手の父の張本宇(はりもと・ゆ)さんです。
元卓球選手である張本宇さんは、息子である張本智和選手のチーフコーチを務めています。さらに、日本代表男子ジュニアナショナルチームのコーチでもあります。
あの福原愛選手などを排出した宮城の仙台ジュニアクラブのコーチでもあり、過去には、小山ちれ選手(全日本卓球選手権大会で8度の優勝や、2度のオリンピック出場をした元王者)の練習相手などもされた凄い方。
張本智和選手の父というよりは、名コーチとして卓球界では有名な人です。
張本智和が両親からもらった中国名
現在、張本智和として活躍されていますが、2014年より前は『張智和(ザン・トモカズ)』という中国名でした。
父親の張本宇さんは、1998年に中国・四川省から異国の地『日本』へコーチとして来日し、日本で結婚されました。
そんなご両親は、四川省の家や当時の自宅を売り、卓球場兼住まいとして仙台市内に『張本卓球場』を2016年8月にオープンさせ、選手の育成に力を入れています。
このオープンセレモニーには、現役時代から仙台ジュニアクラブでお付き合いがあった福原愛さんがお祝いに駆け付けました。
両親から受け継いだもの
お父さんの宇(ゆ)というお名前が珍しいと思うのもそのはず。父親は元々中国国籍の中国人だったからです。
1998年に両親が結婚され、5年が経った2003年に日本で張本智和さんが誕生しました。
さすが、卓球選手同士の血を受け継いだ張本智和選手はなんと2歳ですでにラリーができるほど幼少期からその才能を発揮します。
その後、5歳年下となる妹・美和さんも生まれ、現在の一家4人のピンポン人生が始まりました。
張本智和の両親の名字が違う理由
張本選手の父親は、中国国籍の時は張凌(ざんゆ)という名前でしたが、2014年に帰化したことによって、中国人から日本人へ変わりました。その時に、名前も日本名の張本宇に変わったということです。
しかし、この時に母親は帰化せず、中国籍のままだったため、元中国国籍の日本人の父と中国国籍の中国人の母という少し複雑な国籍の状態に。
外国人が日本国籍を持つこと。日本では多重国籍は認められないのでそれまでの国籍は放棄する。未成年の場合、一人では帰化できないこと。
ではどうして父親だけ帰化したのでしょうか。
両親との深い絆に感動
先程話した通り、張本智和の両親は父親も母親も中国人であり、張本智和選手ももちろん中国人として生きてきました。
そして、そもそも中国人であった両親は帰化することなんてこれっぽちも考えていなかったそうです。
それはそうですよね。ハーフでもなければ純粋な中国人なのですから。
しかし、日本で育った張本選手はそこに違和感を覚えます。そして、小学4年生のときに「日本に帰化したい」という思いを伝えたそうです。
でも、まだ未成年である実は張本智和選手は一人では帰化できません。帰化するには親が日本人となるか、20歳まで待つこと。
しかし、小学卒業式で「東京オリンピック金メダルを取るのが夢」と宣言した息子の夢を応援したい、その強い気持ちを汲み取った父が帰化すること決意します。
「なぜ母親だけは帰化しなかったか」
本人からのコメントはありませんが、両親共に日本人となるよりは、母親だけでも中国国籍を持っていることにメリットがあったか、もしかしたらあるのでは?とそう考えたのかもしれませんね。
一度国籍を放棄すればすぐに戻すことはなかなか難しいと思います。そんなことすれば、そういった人たちが大量に出てきた時に大変なので、国も出来る限り慎重に許可するはずです。
息子の夢を叶えるための最良な決断とも言えると思います。国籍がどうであろうと親は親です。それによって関係が何か変わるわけではありません。
張本智和の日本人への思いとは
張本智和選手は、日本で生まれ、日本で育ち、心は日本人である意識が強かったのではないでしょうか。その証拠に「日本に帰化したい」という思いを両親に伝えたわけです。
それは、小学生の時に卓球選手として国内から世界へ視野が広がった時、日本人選手として戦いたいという想いが芽生えます。
母・張凌さんの手記ではこのように書かれていました。
夫とともに卓球の厳しさを知るだけに、当初は選手になるのは反対でした。考えが変わったのは小学4年時の全日本ジュニアの県予選。3ゲーム先取で0-2のゲームポイントを握られた時でした。そこから3-2と大逆転したのです。泣きました。この子は違う。わたしを超えたと。以来、トモの卓球人生を支えようと考え直しました。
引用:日刊スポーツ
卓球選手であった両親は、卓球という世界で生活することの難しいことを知っていたのでしょう。親としては願っていなかった道。
しかし、その親の気持ちとは反対に、卓球へ情熱を注ぎ、夢を叶えられる程の結果を残してきた張本智和選手。
今は、東京オリンピックで日の丸を背負い、金メダルを目標に日本人選手として戦えるところまできました。
親譲りの張本智和の記録
12歳という若さでITTFワールドツアーU21で男子シングルス優勝、その後も若干14歳で全日本選手権の男子シングルスで優勝、史上最年少優勝を果たした記録を持っています。
さらに、ITTFワールドツアーでは、金メダリストの馬龍や張継科を破って優勝するなど世界を驚かし、優勝賞金10万ドルのグランドファイナルでも史上最年少優勝記録を更新しました。
その男子シングルスの一部でもこれだけあります。
張本智和の日本の成績
2010年 | 全日本卓球選手権 | シングルス優勝 |
2011年 | 全日本卓球選手権 | シングルス優勝 |
2012年 | 全日本卓球選手権 | シングルス優勝 |
2013年 | 全日本卓球選手権 | シングルス優勝 |
2014年 | 全日本卓球選手権 | シングルス優勝 |
2015年 | 全日本卓球選手権 | シングルス優勝 |
2015年 | ポーランドジュニアオープン | シングルス準優勝 |
2017年 | チェコオープン | シングルス優勝 |
2017年 | インドオープン | シングルス準優勝 |
2018年 | 全日本卓球選手権 | シングルス優勝 |
2018年 | グランドファイナル | シングルス優勝 |
2018年 | ジャパンオープン | シングルス優勝 |
2019年 | 全日本卓球選手権 | シングルス3位 |
2019年 | 香港オープン | 準優勝 |
チョレイの意味
福原愛さんの「サー!」も印象的でしたが、張本智和といえば、やはり「チョレイ!!!」と叫ぶことでも有名です。
あの水谷隼選手には、冗談で「耳栓でもします」とまで言われてしまうほど大きな声ですが、いったい「チョレイ」に意味はあるのでしょうか。
張本選手の親である張本宇さんに『チョレイ』について聞くとこのように答えています。
「息子に聞いても『意味なんてない』というばかりで……。中国語か日本語かさえわかりません。智和が叫び始めたのは小学校4年生の頃(2013年)。福原(愛)選手が、智和が通っていた小学校に来て試合をしてくれたことがあるんですけど、その後に『チョレイ』と叫ぶようになった」
引用:週刊ポストセブン
そして、面白いことがもうひとつ。
中国の卓球選手に金メダリストの馬琳選手という人がいるのですが、実はこの選手も「チョレイ!」と叫んでいたといいます。
中国語で【出来(チョライ)】という(中から外へ)出てくる・顔を出すといった意味の言葉があります。もしかしたら、「来た~!」という意味でも使われているかもしれませんね。
張本智和の両親をまとめると
張本智和選手のご両親についてまとめると、
- 張本智和選手の両親はどちらも元卓球選手
- 父は本智和選手が14歳の時に帰化(中国から日本へ国籍を変更)
- 母親のみ中国国籍のまま
中国や日本という国を超え、活躍し卓球を盛り上げようとうする息子を誇りに思っていると思います。
張本一家の活躍が今後も楽しみです。
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